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『中小企業だからこそ一番になれる所をみつけよう』 ―決断、やる気、信念、そして人の道を忘れずに―

スズキ株式会社 代表取締役会長兼社長 鈴木 修 聞き手/公益社団法人 国際経済交流協会 代表理事 米田建三    (2013年1月発行World Navi)

【ハンガリー進出の足取り】

米田 私はいまのセルダヘイ大使の第一回目の赴任のときからご縁があって、ハンガリーと日本の友好関係増進、特に経済関係を深めることに努力してきました。ハンガリーに進出している日本企業といえば、誰しもまっ先に思い浮かべるのが御社、スズキ株式会社です。そこで、御社がハンガリーに進出されたきっかけからまずお伺いしたいと思います。

鈴木 1985年頃から商社、伊藤忠さんを通じて、いろんなお話がありましてね、最終的には91年に基本契約を締結したんですが、話し合いを始めたのは85年。ベルリンの壁が破れるのは89年の11月ですから、自由化前からでした。つまり共産党政権のときに、だいたいの基本計画を締結したんです。

ですから、ご縁をいただいてから今年、平成25年で28年になります。日本の自動車メーカーとしては進出第一号でした。今改めてふり返ってみると、ハンガリーにとっては大変な、国家として変化の激しい時期だったと思いますが、大変ご理解をいただきまして、共産党政権でございましたけれども、非常に熱心で、誘致しようというお気持ちがとても強かったです。

米田 ベルリンの壁崩壊のきっかけをつくったのはハンガリーでしたね。ハンガリーがオーストリアとの国境を開いて、夏季休暇としてハンガリーに来ていた東ドイツ国民を西側に行かせたのがきっかけでした。 その二ヶ月後です、東西ベルリンの自由通行が実現したのは。その前33年前にはソ連の占領に抵抗してハンガリー革命を起こした国ですから、共産主義政権とはいえ、ソ連とは異なる素地があったんですね。

鈴木 ハンガリーに行った当時、いろんな方とお話をしていると、声を落として小声で言われるんですよ。もう共産党の時代じゃない、早く一緒にやろうと。そういう話が非常に多かったんです。当時の副首相がメジェシとおっしゃるんですが、その後首相までおやりになられた方、この方が共産党の副首相で閣僚でいらっしゃったんです。どもが契約の記者発表をするときに、このプロジェクトは国家的なプロジェクトであるから、政権が交代しても国家として応援をする、ということをおっしゃってくださいました。私はこのご発言に一番強い印象を持ちました。共産党内閣の副首相であったメジェシさんが、これだけの宣言を―政権が交代してもやるんだという宣言をやってくださった、さすがだと思って、この方を信頼申し上げた、ということですね。その後、ご承知の通りの歴史を経て共産党体制は民主化されましたが、メジェシさんは首相をやられました。 それだけの力量のある人でいらっしゃったということです。そんなことでね、交渉のときは共産党政権でいろいろエピソードがありましたけれども、プロジェクト自体については非常に順調に進めていきました。ハンガリー側が49%、スズキと伊藤忠さんが51%持ってね、やらせていただきました。その後、自動車産業というのは設備投資が非常に大きくかかりますから、設備投資を資本金でまかなうという考え方でやりましたから、どんどん私どもが資本金を多くしていき、今では97・5%になっています。こうして出発したマジャールスズキは、日本の企業ということになっておりますけれども、ハンガリーの皆さん方は、政府をあげてハンガリーのスズキだとおっしゃってくださいます。現在のオルバンさんもね、ハンガリーのスズキなんだということで、非常に協力していただいています。  ところで私はこの方面の学識がありませんからよくは知りませんが、ハンガリーの遠い先祖の方々は、中央アジアから西に進んでいかれたと聞いています。

米田 マジャール語はウラル―アルタイ語族ですね。名前も、苗字が先で名が後で日本と同じです。

鈴木 そういう点でも日本に対しては大変に親しみを持って接して頂いていて、こうしたことも非常に大きかったと私は思いますね。

米田 今でも、いわゆる蒙古斑が何%かは出るんです。でも見たのかっていうと、いやぁ、とか言ってどうもはっきりはしないんですが。( 笑) だんだん減ってるんでしょうけど、間違いなくアジア系なんですね。しかも親日的で。

鈴木 極めて親日的でございましてね、大変お世話になっています。私どもヨーロッパというか、西側へ進出するほどの自信はありませんでしたけど、当時の東欧へ出て、東欧の皆さん方とお付き合いをさせていただくということは、まずやろうと考えました。西側よりも。

米田 なるほど、そういう戦略だったのですか。

鈴木 まず東欧の皆さんと一緒にやろう。今から出れば、ひょっとすると一番になれるかもしれないという、ちょっと思い上がった気持ちもあったんです。私どもはご承知のように自動車メーカーとしては日本の中では、中小メーカーで大手さんと違いますから、慎重にやったんです。いろんなマーケットの調査とか繰り返してやっている中で東欧へ進出させていただくならば、勝てそうな気がしたのです。こういうことが出掛けた動機だったんですね。一時はハンガリーの国の輸出の5%を私どもの自動車の西側への輸出でしめていた。そういうところまでいきました。しかし日本から部品をもっていきましたので、ハンガリー側からみれば輸入ですね。そうするとハンガリーの貴重な外貨を使わせていただくということでもありましたので、なんとかわれわれもハンガリーの国の外貨獲得にお役に立ちたいと考えました。  これが私たちの通販のカタログですが、このようにハンガリーのはちみつ、羽毛布団、陶磁器、ワインを取り扱うことにしました。

米田 拝見しました。素晴らしい内容ですね。

鈴木 あり難うございます。スズキのお中元、お歳暮はハンガリーのワインなんです。もう二十四、五年ずっと続いています。

米田 なるほど、ハンガリー物産を輸入される事業の目的はそういう事だったのですね。

鈴木 ハンガリーの国の貴重な外貨を使わせていただくから、少しでも埋め合わせようとね。西側へ輸出することによって外貨獲得できますけれども、それに加えて日本でも協力していこうと。  私どもで使わせていただくのは全部ハンガリーのワインなのです。よそのヨーロッパのワインもいいけれども、ハンガリーのワインというのはトカイワインを始めとして、昔の王朝や貴族がお使いになったという面もありますけれどもね、だけども機械化されたワインじゃない素朴な味がする、と私は申し上げております。それと蜂蜜。アカシア100%の本物なんです。日本はレンゲ草とか、いろんなものから採ってますけどね。

米田 最近の動きとして、日本のいろんな企業が海外進出先としてハンガリーを考えるところが増えているという話をききました。なぜかというとハンガリーは各市場の真ん中にあってどこにも近いから、ハンガリー一国だけでなくて、ジブラルタルからウラルまで視野にいれられる、と。

鈴木 そうなんですよ。東欧へ進出して頑張ればなんとかなりそうだ、ということの中には立地条件の良さというものがあって、なかでもハンガリーは東側の一番南端というか、西端にあって、西欧、北欧、そして地中海をこえて北アフリカまで市場として考えることができます。ロシアにも近いんですよ。最近はロシアへの輸出が多くなりましたね。実に立地条件がいいんです。

米田 なるほど。これだけ便利な場所にあるのに日本人でハンガリーはここ、と地図で間違いなく指し示すことのできる人は、残念ながらとても少ないでしょう。私たちも中欧という概念をもっと普及させなくてはならないと思います。  さて、海外進出では国民性というものも大変大切ではないでしょうか。私は、ハンガリーがワルシャワ条約機構を出てNATOに入ろうとする時期に5年間連続して訪問しました。日本語の達者なセルダヘイ大使が着任したこともあり、自由化したハンガリーをみんなで応援しようと、日本とハンガリーの関係強化のために通いました。   当時は毎年行くたびに、共産主義時代に痛めつけられたくすんだブダペストが、だんだん華やかになって、かつてのオーストリア・ハンガリー二重帝国の、ウィーンの姉妹都市といわれたブダペストらしくなっていくのを目の当たりにしました。その時強く感じたことが、ハンガリーがもともと持っていた文化水準、国民のレベルの高さです。音楽は有名ですが、文化水準が高いことが共産主義を跳ね返して復興し、新しい時代を切り拓いてゆく原動力になったと思います。

『日本は政府も企業も地元中小企業の育成に協力』

鈴木 ある時期、非常に押さえられていた。それがベルリンの壁が破れて非常に伸び伸びとなった。国民の皆さんに笑顔が出てきました。なんかね、木枯らしが吹いて寒い中でむっつりして、無口で、あまり表情を変えないでいらっしゃった国民の皆さん方がほんとに年々ほがらかになって、笑い声が聞こえるようになった。  もともと文化については、今お話がありましたように、特に音楽の分野なんかでは非常に進んだ国ですからね、日本からも音楽関係者で留学していらっしゃる方は多いですね。ですから確かにハンガリーに行き始めた当初はおっかなびっくりでしたけれど、タイミングよく解放されましたし、日本と民族的にも近いというようなこともあって、 急速に日本とハンガリーの距離が縮まったということがいえるんじゃないかと思うんです。

米田 日本の企業が海外進出をしようとするときに、当然「コスト」の計算をします。そのとき、少し忘れていたことがあるんじゃないでしょうか。つまり人件費の「安さ」だけを、といっては少し過言かもしれませんが、そればかりをおっかけているうちに、別のリスクがある事を忘れてしまった。特にベルリンの壁が崩壊してからは「脱イデオロギー」の経済万能主義的な発想がありました。そのためこれまで忘れていた、或いは考えもしなかった「カントリーリスク」或いは「文明度リスク」にいま我が国企業がいきなり直面させられているのではないでしょうか。  やっぱり文明のある国、ハンガリーのように国民の識字率も高い国の安定性は貴重だと思います。 アジア諸国に比べれば、当然人件費も高くなるでしょうが、総合的に見た場合、やっぱりヨーロッパの国々っていうのは、進出先としてね、非常にバランス取れていていいんじゃないかと、私などは思うんですが。

鈴木 賃金の高い安いは、能率よく仕事をしていただければ、あんまり影響ないんですよね。私たちは22ヶ国に 工場を持って、百ヶ国以上の、国連に加盟しているほとんどの国には販売会社があります。  だから私はグローバルにものを考えていかなきゃいかんということを、よく言うんです。それはどういう事かというと、風俗、習慣、環境、言葉、いろんなものは違っている。また近隣の問題については、その国や民族のおかれた立場で多少の変化はあります。けれども、人間対人間という考え方になれば、やっぱり裸の付き合いができます。そういう点ではどこの国とも仲良くできるんじゃないかなと思うんですが。  ハンガリーという国の場合は特にね、アジアから出てらっしゃった方々であるだけでなく、歴史を通じてもともと親日系の国であったと、これが幸いしたんじゃないのかな。それからベルリンの壁が破れて十年間ぐらいは、やっぱり右往左往された点はありましたけれどね、今は制度も考え方も日本や西側の考え方と、もうほとんど変わりま せんからね。  私どもにも、自動車産業なり、普通の産業を発展させるのにはどうしたらいいか、知恵を貸せなんておっしゃられるときがあるんです。日本の国が、日本のスズキが行って全部やっちゃうってことではなく、その国の起業家たちが資金を出して、自国の製造業をお始めになる。鉄板を折ったり曲げたり、塗装したり、プラスチックをやったり、そういう地元の皆さん方が起業されると、その国に一番根付くんです。ですからスズキがやるということも重要ですけれど、ハンガリーの起業家たちがやることが非常に重要ですので、「中小企業対策をやってください。そうすればわれわれいつでも指導します。」と申し上げたんです。

米田 御社が進出されてその関連の小さな企業もいくつか発生した日本は政府も企業も地元中小企業の育成に協力わけですね。

鈴木 そうなんです。また日本から非常に多くの企業も進出されましてね、合弁で事業を始められました。現地の資本で現地の人が根付かないと、ほんとの事業はできません。

米田 それはハンガリーにとっても有難いことですね。そういえば確か辞任された後にハンガリーのゲンツ大統領にお目にかかりましたら、日本の経済支援が一番ありがたいと語ってくれました。それは中小企業を育ててくれるからなんです。よその国はただ単に、支社を作って儲かるか、儲からないか、という感じだけれど、日本はちゃんと育ててくれる。それが国家としてものすごく有難いって言ってましたね。

鈴木 そういう総合的な対策を立てて、対外協力をすることが大切です。戦争に負けてね、戦後日本がいろんな国へ出ていく、あるいは、いろんな国から日本へいらっしゃる、そういう経験の中でグローバル化していかなくちゃいかんと、こういうお考え方で、お役人の皆さんというのはすごく頭がいいから、戦後すぐ方針を切り替えられた。これが日本にとって非常に良かったし、われわれが世界へ出ることに対しても素晴らしい応援をいただいています。  人間ってどんどん変わってきますからね。変わっていくべく色々我々も国に対して提案をしていくということが、やはり非常に重要なのではないんでしょうか。

米田 ここで冒頭に述べました私とハンガリーとのご縁を少しご紹介させて頂くと、そもそものきっかけは経団連の専務理事だった糠沢さんが駐ハンガリー大使だった時、ユネスコの事務局長選挙に関連して、フランス駐箚の松村大使を当選させるため、親日的な国を訪問して、日本支援のお願いをしようと私が団長で訪問したことでした。  ハンガリーが快く日本の申出を受けてくれたので、それではお返しになにか、われわれもやりましょうと言ったら、ハンガリー建国千年のお祝いをやって欲しいと。彼らの先祖マジャール人が中央アジアから出てきて建国して千年の年が西暦2000年だったのです。  そのときの大使が、いまのセルダヘイ大使ですが彼とは日本大使公邸で初めて会ったのです。日本語が上手なばかりか歴史に詳しい。日本近世史研究家で明治維新のころの話になったら、われわれ日本人より良く知っている人物が居るので何者だろうと尋ねたら、間もなく日本に赴任するというのです。それでわれわれはチーム作って、セルダヘイ大使の応援をもう徹底してやったんです。その彼はいま2度目の赴任です。奥さんも日本人だし、なんとかまた盛り上げようと政界、官界、経済界横断でお声をかけ、昨年「日本ハンガリー経済交流促進協議会」を結成し、鈴木会長には経済界の代表幹事をお引き受け頂き、大変有難く思っております。

鈴木 そういうご縁がおありでしたか。私の通訳をもう25年くれている人は、60歳位になりますが、はじめは東大の建築科へ、ハンガリー政府の奨学生として留学した人です。共産主義の時代は理系しか留学させなかったんです。地主の娘さんだったので適齢期のころ、共産党に虐待を受けたと聞いています。そういう人たちがね、案外日本びいきでいらっしゃる。  前のゲンツ大統領は文学者で川端康成の小説を翻訳したんですよ。そしたらイギリスの誰かが訳した英文よりもよっぽどうまい訳し方だと言われています。娘さんは外務大臣をやっていましたね。

『海外進出へのアドバイス』

米田 さて、すっかり話が弾み時間もなくなってきました。ここでハンガリーにこれから出てみようとお考えの企業や個人の方へのアドバイスをお願いします。

鈴木 決めたらやってみなさい。途中で挫折するような考え方じゃ駄目ですよ。必ずその道は拓ける。それだけの信念をもってやらないとね。汗をかきなさい。もういい加減な気持ちでやったら駄目です。だけどもお互い人間同士なんだから、それがすべてを解決する。  日本も戦争に負けて苦労した。ハンガリーの場合は、共産政権の時代随分ご苦労なさった経験をされてます。だからそんなに心配いらないし、こういう言い方はいささか失礼かもしれませんが、日本よりは政府の高官にお会いできるチャンスもありますし、あるいはご提言申し上げるチャンスもありますから、勇気を持って出掛けていく。決断でしょうね。あとはやる気 る気。やって通そうという、やっぱり信念でしょうね

米田 いまおっしゃったことは、ハンガリーだけでなく、また海外進出だけでなく、将来に不安を抱きながらも懸命に努力している日本のすべての経営者、社会人が励まされ力づけられるお言葉ですね。 本日は有難うございました。


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