『日本はとても影響力のある国、大使としてあらゆる面で両国の関係を強化したい』
駐日ハンガリー国特命全権大使 セルダヘイ・イシュトバーン閣下 聞き手/一般社団法人 国際経済交流協会 代表理事 米田建三 (2012年7月発行World Navi)
【大使とのご縁のはじまり】
米田 私と大使のご縁はもう十年以上になりますね。
大使 1999年の夏、ブダペストの日本大使館でお会いしたのが最初でした。
米田 経団連の専務理事だった糠沢さんが大使で赴任していて、我々が訪問をした、その時に日本大使館でお会いしたんでしたね。あの時はブタペスト大学の教授でした?
大使 ええ、でも大使として来る準備をしていた段階だったと思います。1989年にベルリンの壁が崩壊し自由化してちょうど10年目でした。政治体制も経済体制も、法的枠組みは比較的に早くにできるのですが、根を下ろす、しっかり安定した形になるというのにはかなり時聞がかかりました。10年経ってもまだまだ過渡期という感じでした。
米田 あの時初めてブタペストヘ行きました。ブタペストはオーストリー・ハンガリー二重帝国におけるウィーンの姉妹都市で、文化や伝統は大変すばらしいものがあるという印象を持って行ったんです。しかしブタペストの町があまり綺麗でないのにびっくりしました。共産主義が与えた被害って大きいと改めて思いました。これをきっかけに5年間毎年ハンガリーを訪問しましたが、一年ごとに見違えるように綺麗になりました。
大使 そうですね、だいぶ綺麗になりました。私は先生とお会いした直後の99年の9月に、大使として日本に第一回目の赴任をしました。ちょうど翌年に建国千年を控えた年でした。
米田 それを盛大にお祝いしようということで、ハンガリー建国千年祝賀委員会を結成し、永田町の憲政記念館でシンポジウムと祝賀会をやりましたね。丁度ハンガリーがワルシャワ条約機構を抜けてNATOに加盟するので、ハンガリーとヨーロッパの安全保障をテーマにしました。第二部ではハンガリーのワインなどを大使館から出していただき、盛大で楽しい祝賀会になりました。以来私も国会議員のサポート集団を結成し、毎年ハンガリーヘ通っていろいろなお手伝いをしてきました。それにしても、二度目の赴任というのは珍しいのではないですか?
大使 かなり珍しいですね。同じ国ヘ何回か赴任する外交官がいるんだけれども、大使として二回というのは確かに珍しいです。
米田 大使は神戸大学の大学院を卒業されている、奥さんも日本人である。きっと御国では対日本外交において余人をもっては代えがたいという位置付なんでしょう。
大使 日本通であると共にアジア、東洋の国際関係専門家という評価を頂いているように思います。
米田 日本からハンガリーへ戻られた後は香港でしたか?
大使 しばらくハンガリーの大学で仕事をしていて、それからまた香港の大学で教えていました。その後にまた外務省ヘ戻りまして、アジア太平洋地域局長をやりました。 【日本近代史への関心と留学のきっかけ】 米田 ところで神戸大学では何を勉強されたんですか?
大使 「近現代史」つまり日本の近代史と現代史です。
米田 明治レボリューションを挟んだあの時代の。
大使 そうです。日本に留学したときは主に明治維新期を勉強しました。その後は新しい歴史をいろいろ勉強しました。 米田 日本のそういう近現代史に興味を持った理由は何ですか?
大使 日本の近代化の過程を学びたかったのです。当時のハンガリーは共産主義世界から自由世界に入って、近代化が必要だという風に感じていて、時代的には違うんですが、しかし日本の明治維新後の近代化の過程から何か学べるのではないか、と非常に興味がありました。
米田 外から見た場合、日本の近代化というのは参考になります?
大使 なります。スピードは速いし、社会の対応がとても柔軟でまた国家組織そのものの構成が非常に面白かったと思いますね。
米田 私も大学で6年半教授を務めて「近代日本の国際関係」というテーマで講座を持っていました。封建体制を打破して近代統一国家の道を歩んで、その77年後にアメリカと戦って敗れました。驚くべきもの凄いスピードです。1945年の段階では江戸時代に生まれた人がまだ生き残っていました。戊辰戦争で会津落城を経験し、北清事変で「北京篭城」した陸軍大将柴五郎もね。日本の急速な近代化とそして有史以来の敗北の両方を見た人がいるのです。こうした急速な近代化を可能にした理由は何だと思いますか?
大使 長い江戸時代、鎖国体制の間に、日本の社会は非常に熟していたんです。社会の中に近代的な考え方や近代的な組織力などが既に存在していました。ある意味で日本社会は既に開かれていて、普遍的な近代化というものへの準備があった、ということが一番大きいと私は考えています。奇跡とかジャパニーズミラクルとかいう言葉があるんだけれども、明治維新の前の日本の社会を良く見ると、それは奇跡ではなく、日本の社会は準備ができていたんです。例えば識字率はヨーロッパよりはるかに高かったですね。しかも日本社会は非常に合理的で組織力が強くて、それをひとつの方向に向かわせることに国家が成功したことが、スピーディーに近代化が達成された大きな理由です。
米田 教育だったのかなと思います。封建時代といいながら支配階級だけではなく一般大衆も教育を受けるというのが一つの習慣になっていました。日本橋の三越に向かう地下通路に、江戸時代の日本橋界隈の絵があります、様々な江戸の庶民生活が描かれているのですが、その中に適齢期の嫌がる子供を親が引きずって寺子屋ヘ連れて行ってる情景があります。裕福には見えない江戸の庶民だけど、子供が一定年齢になったら必ず読み書きを勉強させるという習慣だったんですね。身分制と言いながら、実は下級武士よりかよほど商人の方が豊かだった。未だにアジア・アフリカ地域には専制的な国家が残っています。専制的な国家というのは階級がそのまま人間の富と貧困に結びついています。日本の場合、士農工商といいながら実は幕府時代の終わり頃はまったく崩れて、幕府の旗本や御家人でも貧しいのはもうスラム街みたいなところに住んでいて、江戸・京・大阪などの大商人が立派な屋敷に住んでいます。人間としての経済力だとか、学問をする自由がありましたから、大名でも商人でも歌の会とか茶会で対等に付き合ったという記録もあります。そういう意味で近代化にすぐ結びつく蓄積があったんですね。
大使 そうです。 近代化の準備ができていた江戸時代 米田 ところで初めて日本に来られたのは神戸大学の留学ですか?
大使 そうです。1984年でした。84〜87に3年間神戸大学の修士課程で学びました。日本語はずっとハンガリーで勉強していましたけれども、日本に来た時に漢字の読み書きなど頑張って勉強しました。来日時には会話は十分ではありませんでしたが、大学ヘ来て毎日講義を聞いて、また日本の家族と一緒に住んでいましたので、だんだん上達しました。
米田 奥さんは日本人ですね。
大使 彼女と知り合ったのは留学時代の終わり頃だったんです。当時は日本の家族と住んでいました。
米田 作家の宮本輝さんの家ですね。有名な話ですね。朝日新聞に連載された「ドナウの旅人」という小説のための通訳をして知り合って、それで宮本さんに留学を薦められたのでしたね。奇しくもマジャール語(ハンガリー語)というのはヨーロッパの中でフィンランド語・エストニア語と同様のアジアのウラル系言語と言われてますが。
大使 そうです。大昔ずっと東から西に移動した時にいろんな部族があって、北の方に行ったのがフィンランドとエストニアになり、南に行ったのがハンガリーになりました。かなり離れたところで国を造ったことになります。顔つきとか体つきは変わりましたけど、どこかに少し昔のアジア的な遺伝がちょっと残っているみたいです。 【苦難の共産主義体制時代とその崩壊】 米田 ハンガリー人は他のヨーロッパ諸民族より、ある意味では日本人に極めて近いんですね。そのせいか、昔から日本人というのは、何となくハンガリーに親近感というか、興味があります。ハンガリーの話をすると皆いい国だ、行ってみたい、となります。日本とハンガリーは一度も戦ったこと無いですね。
大使 第一次世界対戦ではオーストリア・ハンガリーはドイツの味方だったんで、一応反対側に立っていたんだけれども、一度も戦ったことはありません。第二次大戦では、ドイツの同盟国でした。 文化の伝統が自由への扉を開いた 米田 第二次大戦は同じ陣営で戦ったことになります。その後日本はアメリカに占領されて戦後体制が始まりました。もちろん占領というのは愉快なことではないけれども、アメリカの占領というのは日本の戦後の発展にとって、相当なプラスもあったと私は思います。しかし御国は幸か不幸かソビエト連邦の・・・
大使 一番不幸ですね。
米田 占領下になって共産主義体制ができた。しかし長い伝統に裏付けられた洗練された文化を持っている国が、共産主義体制に従順な訳がない。ハンガリー革命など様々な抵抗がありましたね。ハンガリー革命は記憶していますか?
大使 1956年です。私は1959年に生まれましたが、父は革命に参加しました。ソ連軍に抑えられた時、家族や他のハンガリー人と共に刑務所に入れられて、出た時あたりに私が生まれました。56年以降、私の子供から青年の時代、60年代・70年代は社会主義時代だったので、スターリン主義時代ほどは厳しくはなかったんですけれども、でもやはり自由ではなかったです。
米田 青年時代に、こういう体制をいずれ乗り越えて民主化しなくちゃならない、という気持ちはお持ちでした?
大使 気持ちは非常に強かったんです、もちろん。本当に毎日これを願っていたくらい強かったんですけども、但し、私が生きている聞に実現するかどうかはわかりませんでした。
米田 私は1947年の生まれで、私も自分の生きているうちにベルリンの壁の崩壊とソビエト連邦の崩壊を見るとは思いもしませんでした。現実の生活の中で、ああいう強権的で独裁的な体制では駄目だという気運はかなり蓄積されていたということでしょうか、一般の民衆にも。
大使 ハンガリー人にとっては、この社会主義体制は非常に不自然で、外から強いられた体制だということは、政治的にも経済的にも文化的にも、みんな感じてたんです。一回思いっきり戦いました。もちろん凄く大きいソ連には勝てるはずがない。にもかかわらず一度やってみた。これは抑えられました。その後に社会全体は意気消沈してしまい、もう駄目だって感じで、そういう非常に暗い雰囲気の中で、若い人は音楽とか芸術とかいろいろやって自分を表現できたんですけれども、経済と政治の面では難しかったですね。
米田 私も何本かハンガリー映画を見ましたけど、ハンガリーの芸術はすばらしいし、蓄積はすごいなと思います。民族が持っている洗練されたセンスを感じました。それだけに共産主義体制は相当不愉快だったろうと思います。変な言い方になるけども、遅れた国だったら逆に幸せだと思えたかもしれません。社会主義体制をまだ昔よりいいと。だけどハンガリーの歴史を見ると第二次大戦前すごく自由でいい政治体制の時代がありましたね。
大使 ハンガリーでは、自由に対する希望は、市民レベルだけではなく、その当時の国の指導者レベルまで及んでいたので、東ドイツ市民がハンガリー国境に押し掛けたとき、国境を開くという思いきった決断を、当時は社会主義政権だったにもかかわらずやれたんです。
米田 一度堤防を切ったらもう水を止めることはできません。さてその後御国はEUに入られて…
大使 2004年です。 【ヨーロッパの一員としてのハンガリー】 米田 そして今はハンガリー・チェコ・ポーランド・スロバキアの四ヶ国で、ヴィシェグラード・グループを結成されて、その中心的国家として歩んでおられます。今EUは大変だけれども、しかし長い伝統を持っているヨーロッパが完全崩壊するなんてことは考えられません。長い歴史から見たら一時の苦しみで、私はいわゆるヨーロッパや御国には大変素晴らしい未来が開けていると思います。ロシアの脅威っていうのはだいぶ減りましたが、日本も隣に大きな共産主義の国があり、中央ヨーロッパのみなさんと同じようなフィーリングがあると思います。幸いにも文明や文化を持っている国が、そうした脅威から身をまもりつつ、お互い同士どう発展していくか、という共通の課題を、日本とハンガリーは持っていると思うのです。EUへの加盟は、そうした課題への一つの解答だったと思いますが、加盟はハッピーでしたか?
大使 そうです。我が国だけでなく、チェコもポーランドもスロバキアも同じですけれども、社会主義体制の時代に日本人にもよく言われた「東ヨーロッパ」という括りは、我々としては非常に耐えられない区別だったので、EUに加盟することで、再びヨーロッパと一緒になったと喜んだのです。もちろんこうした大きい経済単位の一員となれば経済も安定するし、安全保障面でもNATOのメンバーとなることで安心できるという期待もありました。
米田 NATOは加盟国のいずれかの国に対する攻撃は、全体に対する攻撃とみなします。これ程大きな安全はないですね。どこの国も手を出すことができません。この安定こそ、文化や経済の発展のためのベースですね。
大使 そうです。安心して暮らせる気持ちがなければ、経済も文化も発展はやはり難しいですね。最近のNATOサミットで、NATO諸国はバルト諸国の空を防衛するという合意ができました。ハンガリーは数は少ないけれども戦闘機を持っていますが、バルト三国は持っていません。そこでハンガリーが持つ戦闘機もその「サービス」に参加するわけです。ハンガリーはもっと大きい国に守られているけれども、私たちもNATOの同盟国を手伝うことができます。 【伸び行くハンガリー経済 中央ヨーロッパが発展する時代か到来】 米田 それはすばらしいことです。さてEU経済なんですが、今混乱していますが、これはハンガリー経済にとって、どういう影響をもたらしますか?
大使 今のところハンガリー経済の調子はまぁまぁという感じですが、ヨーロッパの中では、この中央ヨーロッパのヴィシェグラード・グループ(V4)の経済がこれから一番将来性がある、という評価があります。南の方のギリシャ・スペイン・イタリアではちょっと財政的に混乱状態がありましてかなりヨーロッパ全体が頭を痛めていますけれども。このV4、ハンガリー・ポーランド・スロバキア・チェコは非常に早いぺースでGDPが伸びるという見通しがあります。もう既にポーランドとスロバキアではGDPの伸び率が年間4%ぐらいで、EU平均をはるかに超えています。ハンガリーとチェコはだいたいEU平均並ですけれども、来年・再来年あたりにはポーランドやスロバキアと同じように、非常に伸びが早くなる見通しです。
米田 なるほど。そのV4グループの中心的な国であるハンガリーには、日本からも、スズキ、デンソー、イビデン、HOYA、アルパイン、クラリオン、日清食品、大林組、立山科学工業、富士新幸、パナソニック、ブリジストンなど著名な企業が進出していますね。V4が将来性あるとされる理由は何ですか? 高い教育水準と整備されたインフラ 大使 労働力が西ヨーロッパに比べると安いのです。それでいて非常に水準が高い。例えば同じ水準の労働者の給料は、イギリスやベルギーやスペインでも、ハンガリーよりはるかに高いのです。高速道路など、インフラストラクチャーも整備されています。ヨーロッパの歴史的発展の構造を見ますと、いくつかの段階があります。一番古いところが西北ヨーロッパです。オランダ、イギリス、ドイツなど。ここからだんだん広がってきて、北ヨーロッパ、デンマークやスウェーデンの発展が著しいときもあり、南の方、イタリアやスペインが注目されたときもありましたが、今はちょうどこの中央ヨーロッパ地域の時代が来た、という風に言えると思います。
米田 近代産業が進出する時には、水準の高い労働ができる国民が必要ですね。文化水準、教育水準が基本的に高いところでないと。そういう意味でもV4の地域は注目すべきですね。
大使 そうです。教育や研究開発には伝統があります。ハンガリー出身のノーベル賞受賞者も非常に多くて、今でもハンガリー人はいろんな発明をしています。教育や文化の伝統があり、音楽だけではなくて他の文化面でもかなり洗練された環境の中で、経済活動を行うことができます。また中欧の中でハンガリーは最も日本語教育に力を入れていて、日本語に堪能な優れた人材が豊富であることも、日本にとってのハンガリーの魅力だと思います。
【各市場への交通が交わる中心に位置するハンガリーの利点】 米田 高度な技術や知識を必要とするような日本の産業は、いまこそV4地域、特にハンガリーに目を向け、投資をするときですね。諸外国の企業も随分進出しているようですが?
大使 例えば有名なドイツのアウディやメルセデス・ベンツがハンガリーで大変大きい工場を作りました。この地域に企業が進出する際には、ドイツを中心とした西ヨーロッパのマーケットとロシアを中心とした東のマーケットを狙って来ます。それに加えて北アフリカやトルコのマーケットもだんだん大きくなって来ています。ハンガリーでタイヤをつくれば、その製品は簡単にドイツにもフランスにもロシアにも北アフリカにもトルコにも持っていけます。ハンガリーはこうした各市場の交差点にあって地理的に非常によいだけでなく、ハンガリーをはじめとするV4地域自身が市場として拡大しつつあります。日本の企業もハンガリーの利点をわかってくれています。例えばスズキには、ロシアに工場を作る計画があったようですが、ハンガリーの工場を拡大すれば、そこから巨大なロシア市場もカバーできると判断されたと聞いています。また、中小企業にとっても、ハンガリーに進出している日本の大手企業を売り先とするだけではなくて、例えばアメリカやドイツの大手企業のためのサプライヤー、部品メーカーとして売上を伸ばしたり、独自の優れた製品を、先ほど述べた広い市場に展開していくこともできます。こうした可能性も日本のみなさんに、広く知らせたいと思います。
大使 例えばハンガリーには日本のブリジストンの大きな工場と韓国のハンコクタイヤがあります。ある日本の企業は、この両方に部品を提供しています。このメーカーは比較的独立していて、日本の親会社だけではなくて、ハンコクタイヤであろうがミシュランであろうが、各国のタイヤメーカーに部品を売っています。
米田 それは素晴らしい話ですね。来る11月16日に私達の社団法人が事務局を務めさせていただいて、ハンガリー投資貿易促進公社と駐日ハンガリー大使館が主催して「ハンガリー投資促進シンポジウム」が聞かれます。大手はもとより、中小企業にもハンガリーに進出するきっかけを提供したいですね。中小企業の人達は、日本の中だけで頑張ってきたから、何と言いますか職人気質と言うか、仕事は凄くできるけど柔軟な発想が意外に乏しいところがあります。ですから、同じ日本の中小企業が進出して、いわゆる親会社だけでなく、他の国からハンガリーに来ている企業や、更に広い市場にも挑戦してビジネスを拡大しているといった、すばらしい具体的な話を沢山紹介しましょう。 大使 ぜひそのような内容のシンポジウムにしましょう。 【信頼性の高い法制度と政治体制】 米田 外国ヘ企業が進出する時には、どういう政治体制なのか、司法制度が確立しているのか、ということは進出を決定する大きな要因です。公正な裁判が行われるかどうか。文明度、民主化の度合いですね。やっぱり中国やロシアはまだ不十分だからリスクが高い。その点ハンガリーはどうなんでしょう?
大使 法制度はEU基準です。そうした制度はEUのブリュッセルでかなり決まっています。ハンガリーでは民主化後20数年経ってEUに加盟しましたが、そのためには法制度をEUスタンダードにしなければなりませんでしたので、問題は一切ありません。
米田 非常に大事なことですね。おかげでハンガリーの魅力が具体的にわかってきました。良く中国の次はインドと言うけれど、その国の文化水準、教育水準や法制度を見極めず、労働コストが安い、土地が安いということだけで慌てて進出し、被害に会う例が多々あります。場所を間違えると、とんでもない苦労をします。
大使 V4諸国の体制が大変しっかりしているということは、例えば自由民主主義ですので四年おきにそれぞれの国で選挙があって、選挙がある度に政権交代もあるわけですが、政権交代があっても制度自体は変わりません。政権が変わるたびにコロコロ変わるという心配は一切ないです。しかもハンガリーの政権与党は大多数を持っていますので、安定した政治体制です。このことも大きなメリットではないかと思います。 【二つの側面から両国の経済関係強化をめざす】 米田 これからの日本とハンガリーの関係について、特に経済関係の強化について、大使として何か具体的なお考えや方針をお持ちですか?
大使 大使として主に二つのところでお手伝いというか、仕事ができます。一つは二国間関係です。ハンガリーの魅力を日本の経済界のみなさんに紹介してハンガリーという国をアピールし、関心を持っていただいた日本の方々に、ハンガリーで経済活動をすることをお手伝いすることです。もう一つは、ハンガリーはEUの加盟国ですので、EUと日本の経済交流のために、EUのメンバーとして手伝うということがあります。例えばEPA(EconomicPartnershipAgreement経済連携協定)です。EUの中には消極的な国もありましたが、ハンガリーは常に積極的な側に立っていました。ですから日本とEUの間でEPAの交渉が始まると、EUの中でヨーロッパと日本の経済交流を密接にすることを手伝うような側に立っていたんです。
米田 私は日本は自由貿易体制を世界としっかり組んでいくのが必要だと主張している人間で、特にEUとの関係を急ぐべきだと思っていますので、是非大使も応援してください。最後に、これからの日本・ハンガリー関係をこういう風に持って行きたいという大使の夢、構想をお話しください。 【大国日本ヘの期待】
大使 いろんな夢があるんですけれども、外交官として、大使としてわかってきたのは、日本はとても大きい国だということです。そしてとても重要な国なのです。経済大国であるだけではなくて、文化・芸術・政治の面でも世界的に非常に影響力のある国ですので、ヨーロッパの国だけでなく、世界中の国々が日本とどういう風に仲良くしようか、とかなり競争があるのです。この競争に勝ちたい。日本とハンガリーの関係を日本と他の国の関係よりも良くしたいのです。もちろん経済が非常に重要ですけれども、政治の側面もあるし、安全保障の側面もあるし、教育・文化・芸術・スポーツ・観光などなど数えられないほど分野があります。それぞれの面で競争相手より良くしたい。どの国もみなやりたがっているんだけれども、私たちの方がもっと良くやりたいということですね。
米田 このたび私達の協会が、ハンガリー大使館より正式に「駐日ハンガリー大使館商務サポートオフィス」というタイトルをいただきましたので、より密接なパートナーシップを発揮し、大使の夢の実現にご協力できると思います。これからもよろしくお願いします。
大使 こちらこそよろしくお願いします。ありがとうございました。
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